実在される神の体験
ノエル・モーリス

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 私は頭が混乱し、むしやくしやしていました。曲がりくねった田舎道に沿って車を走らせながらアクセルを一杯に踏み込みました。私は、「神さま、もしあなたが実在されるお方であるなら、この車をいつまでも走り続けさせてください。」と祈りました。それはまともな析りであったでしょうか? 神さまは実在されるお方なのでしょうか? 自分の人生が台無しになろうとしていたときですから、そんなことは気にかけていませんでした。
 ほんの数分前まで、私は妻のイーディスと言い争っていました。彼女も、自分の人生を何とかしようとして、数週間入院していたのです。私たちはふたりとも間題を抱えていることは分かっていましたが、その答えについてはいつも口論に終わってしまうのでした。私たちの結婚は終わってしまったかのようで、離婚は避けられないと思われました。
 道は小さな町に通じていました。その町の居酒屋の前を通り過ぎる時、私はそこに入って悲しみに浸っていたい衝動にかられましたが、それに耐えました。別の町の居酒屋のところでもそうでしたが、再ぴ車を走らせ続けて自分の住む街に戻りました。しかし、私は自分の家の前も通り過ぎてしまいました。どこへ行けばいいのか? 傷ついた思いを持ったままで、人々と一緒にいられるだろうか? そのとき私は、イーディスのクリスチャンの友人たちが、今晩祈祷会を開いているのを思い出しました。そこで、私は彼らの家まで車を走らせることにしました。
 私が神さまについてより深く考えられるようになったのは、恐らくその晩に私が人々から感じ取った無条件に受け入れる愛、又その家の中に満ちていた平安のためであったと思います。二日後、私は家にいて、遇ぎ去った7年間のことを思い起こしていました。
 イーディスと私は若くして結婚し、努力したので、ニユージーランドでの暮らしは成功していました。彼女は赤ん坊の頃に小児麻痺にかかったので、脚に金具をはめ杖をついて歩いていました。彼女は幼児期のほとんどを病院で遇ごしました。
 私は自分を信じることができないままに成長したため、いつも物事を立派になし遂げるようにプレッシャーを受けていましたが、一向に成功することができませんでした。そういうなかで今度は結婚生活の危機に直面したのです。一晩中よく考えた末、私は夫として彼女の役に立てなかったことを大変申し訳なく思っていることを伝えるため、イーディス宛の手紙を書きだしました。書き終えてからベッドにもぐり込む前に、私はひざまずいてもう一度祈りました。「神さま、もしあなたが実在されるお方であるなら、どうか私を助けてください。私は自分の人生を台無しにしてしまいました。何とかしていただけないでしょうか?」
 私はうとうとしながら、この手紙をどのようにイーディスに届けようかと考えていました。その日は土曜日でしたので、郵送すれば彼女が手紙を愛け取るまでに数日かかります。もし私が病院に出向いて行けば、恐らく私たちは又、口論することになるだけです。でも私は、自分の心を急いで彼女に打ち明けなけれぱならないと思ったのです。
 私たちの結婚の問題と同時に、−その原因の一部でもあったのですが− 私は電子技術者としての自分の仕事についても問題を抱えていました。私は、8つの郡市にある病院のエックス線装置の設置や修理の仕事をしていました。私はしぱしば機械を設置するために夜遅くに何時問もかけて車で出かけて行き、明け方近くに家に戻ってくることがありました。この仕事ははじめはとてもやりがいがあったのですが、後には仕事に振り回されるようになってしまいました。それが自分の結婚生活に影響を与えていることに気づいたのは余りにも遅すぎましたが、私はとにかくその仕事を辞めることにしました。それは他の会社が自分の才能を認めて雇用したいと言ってくるだろうと考えていたからです。しかし実際には、そのようにはなりませんでした。新たな門戸は開かれなかったのです。

●聖霊様の語りがけと妻との和解
 電話のベルの音で深い眠りから目を覚ましました。電話の相手は以前の顧客で、私が未だ仕事を探しているのかどうかを尋ねました。「それでは、月曜日の朝に会いに来てください。」電話を切った時、私の心の中で何かが、「ねえ、神さまはあなたのことを気にかけていてくださるのだよ。」と話し始めました。でも、私は未だ疲れていたので、またうとうとしてしまいました。
 2時間ほどたってから物音がしました。ドアが開いてイーディスが寝室に入って来たのです。私には、神さまが私の祈り以上に応えてくださったように思えました。私は起き上がって、前の晩にかなりの時間をかけて書き上げた手紙を彼女に手渡しました。身体中に、聖めの感じが流れるのを覚えた時、急に涙(悔い改めの涙)が溢れ出しました。あたかも自分のいのちが洗い聖められて、出直す機会を与えられたような気がしました。その瞬間に、イエスさまが私にとって本当に実在されるお方となったのです。それと同時に、主は私にひとつの約束を与えてくださいました。それは、私たちが結婚式のときに告白したみことばで、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」というものでした。この約束は、離婚するような事態にはならず、私たちの結婚は修復されるだろうという確信を私に与えてくれました。その後私たちはふたりで主とともに歩み始めました。それは容易ではありませんでしたが、イエスは少しずつ私たちの人生を変えてくださり、また私たちが互いに愛することを学ぶのを助けてくださいました。

●たばこからの解放
 数か月後、イーディスは頼っていたヴァリウムそのほかの錠剤から解放されました。私も自分自身の解放を体験しました。私は高校生の時からタバコを吸っていて、その習慣を打ち破ることができずにいたのです。ある晩、祈祷会(私がイエスを知る前に行ったのと同じもの)で、私は再度夕バコをやめようとしていることを話しました。そこにいた男性たちは聖霊の力を知っている方々で、彼らは私の周りに集まり、私に按手して析りました。祈ってもらってから、私は持っていたタバコとライターを彼らに差し出しました。それ以来27年問、二度とタバコを吸いたいと思ったことはありません。主は、私の成し得るところをはるかに越えたことを私のためにしてくださいました。主は私を解放してくださったのです。

●聖書学校への導きと日本への宣教
 イエスに対する私の飢え潟きが増し加わるにつれて、みことばをもっと知りたいという欲求も強くなって行きました。私の新しい仕事は、私が訓線されるための主の方法であったのです。私は数名のクリスチャンたちと一緒の職場にいましたので、私たちは働いているときにイエスのことや聖書の話をしました。彼らの一人が私に聖書学校へ行くように勧めてくれましたので、私は翌年に仕事を止め、自分たちの家を貸家にして、私たちはそろってフエイス・バイブル・カレッジに入学しました。


 ある晴れた日のこと、授業の合間の体憩時間に全生徒が外でお茶を飲んだり、雑談したりしていました。誰かが、「もし宣教師になったらどこへ行きたいか。」と尋ねました。勇敢な人たちはアフリカとかパプア・ニューギニアなどと言いました。ほかの人たちは、サーファーのパラダイスであるハワイのような気楽な土地に召されたいと言いました。私は、「自分は日本へ行きたい。」と妻が言うのを耳にして、笑い出してしまいました。私は、「帰国するときには新しいテープレコーダーを持ち帰って欲しい」と彼女に言いました。私にとっては、それはちょっとしたジョークのつもりだったのです。しかし神さまにとっては、それはジョークではありませんでした。その後、数ケ月問にわたって、神さまは私に日本への思いを与えられました。JAPANという言葉が授業や会話の中に出てくるようになりました。この言葉を耳にするたびに、まるで釘が胸につきささるように打ち込まれていくような感じでした。私が何かを手に入れると、それにはMADE IN JAPANと言う文字が表示されているのでした。私がどこに行っても、JAPANが目につきました。神さまは私にせまってこられ、ついに私は「はい、主よ。私は行きます。」と言いました。
 この時に至るまで、私は日本人に出会った覚えがありません。それから私たちはロトルアのFGBMFI大会に出席しました。私たちはホテルで、自分たちの部屋は別室の人と浴室を共用する必要があることを知らされました。そしてその別屋の人たちは日本人だったのです。
 これは、私たちにとっては主が駄目押しをしておられるようなものでした。その日本人は大阪から来た2人のビジネスマンで、クリスチャンではないが、私たちが会うことになっていた最初の人たちでした。又、大阪は私たちが行く先として選んでいた日本の都市でした。今や私たちには、これが私たちの入生のための神さまのみこころであることが益々はっきりしてきました。

●テープ伝道の働きとビデオ伝道の道
 1973年11月28日、私たちは大阪空港に着きました。私たちは大阪のユース・ウィズ・ア・ミッション(YWAM)のチームに加わるために来たのですが、まもなく聖霊さまは明確な必要を私に示されました。それが最終的には私たちの日本におけるミニストリーになったのです。指導者の方が、ネヘミア第8章の「・・・何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。」というみことばを私にくださいました。その「ごちそう」とはみことばを教えるカセットテープであり、やがて信仰テープの仕事が始まりました。それはYWAMの集会、セミナーや教会礼拝での日本語のメッセージを録音する小さなことからスタートしました。これは石油危機の直後のことでもあり、それほど多くの入たちがテープを買うゆとりがなかったので、最初のうちは、テープのほとんどは貸し出されました。ときどき私は最新のメッセージのテープが人った箱を集会に持って行って、それらを貸し出しました。しぱしぱ人々がテープ・ライプラリイでもあった私たちの小さな寝室に群がったものです。
 l974年に宝塚に引っ越し、力タログを発行した時、私たちはテープの郵送を始めました。最初、私たちは一つのデッキからもう一つのデッキにテープをコピーしました。後に私は余った部品でデュプリケイターを組み立て、カセット・デュプリケイターを買う余裕ができるまでそれを使いました。当時は、教会でのメッセージを上手に録音しようとする試みは余りされていませんでした。通常、人々は前列の席に座って小さなポータブル・レコーダーを使って録音していました。私たちは、良質の録音をするために説教者の近くに高性能のマイクが必要であることを最初に言い出しました。これは、レス・プリッチャード師とマーヴィン・ファースト師が日本に優れた聖書教師を連れて来るために聞いた「聖霊セミナー」の時期でもありました。私は日本国中のこれらのセミナーの多くの録音に携わっていました。l977年には私たちは生駒に移り住んでいましたが、この頃にピデオでのテストを始めました。レンタルしたカメラで、私たちは最初のビデオテープを作りました。少しずつ新しい装置が加わって、私たちの製品も改善されて行きました。それでも、ビデオはカセットテーブよりもかなり複雑だったので、製作するのにより多くの時間と装置を必要としました。チヤールズ&フランシス・ハンター夫妻が来日した1988年に転換期がやって来ました。私は大阪地域での彼らの集会の連絡役をしていましたが、第1段階は彼らの本『病人の癒し方』を翻訳して出版することでした。それは大好評で、瞬く間に第1刷が1万部も売れました。それからセミナ−が開かれ、「ヒーリング・イクスプロージョン(癒しの爆発)」が起こりました。
 セミナーのために、私たちは400席のホールを借りましたが、最終的には他の部屋を借りなければならないほどでした。それでも、200人ほどの人たちがホールのロビーに座って、テレビでセミナーを受けることになりました。
 “癒しの爆発”のために、私たちは1l00座席のホールを申し込みました。地域の牧師らは、それが満席になることは決してないだろうと考えていました。当日、私たちはl300人も詰め込みましたが、別の200人が扉の外でテレビを見ることになり、更に近くのカフェテリアでも600人がテレピを見ました。信仰テープでは、これらの集会を皮切りにして他の本の出版を始め、また「ミニストリー・ピデオ」も人気を博するようになりました。

●日本でのFGBMFIの第1歩
 l98l年に、私は大阪でFGBMFI支部を創設しようとしました。以前にも日本で何度か試みられてはいたのですが、余り成功しなかったのです。私も、男性たちを費用のかかる夕食会にさそうことはとても難しいことだと思っていました。挫折して、私は全てを主にゆだねることにしました。未だその時が来ていなかったようでした。この年の遅くにメル・タリ師が来日され、彼の集会を開く機会が与えられました。それはFGBMFIの集会として宣伝されましたが、私は違ったスタイルの集会にしようと決めました。「食事なし、男性に限定しない、ミニストリーと祈りの時をもつ」というものでした。l00人以上の人たちが、第l回FGBMFIオープン・ミーティングに出席するために、大阪クリスチャン・センターの一室に詰めかけました。これが、「オープン・ミーティング」という名称の起源になりました。
 しかし、FGBMFIにとっては未だ神の時ではなかったのです。翌年、主は私に大阪のためにミニストリーととりなしのための月例のオープン・ミーティングを始めるように示されました。その後5年問、主は私たちにゲスト・スピーカーとして神の器を備えてくださいました。そして何百人ものクリスチャンたちが聖霊のバプテズマを受け、癒され、様々な束緯から解放されました。また多くの人々がフルタイムでの主の働きに召されました。


 1985年に、私たちはポプ・ビグノールドの率いるシアトルとジヤック・デロンの率いるカナダのFGBMFIメンバーの訪間を受けるようになりました。間もなく、主が日本で再ぴFGBMFIの働きを始めたいと願っておられることが明らかになりました。私は関西地区のコーディネーターになって、シアトルと力ナグから来るエアーリフト・チームのスケジュールを組んだり、全ての夕食会や教会での集会のアレンジをしたりしました。最初は、私たちがポブとFGBのメンバーを招いて、私たちのオープン・ミーティングで主の恵みを分かち会いました。それからFGBが独自で月例のミーティングを開くことが必要になりましたが、多くの人たちが両方のミーティングに関与していたため、私はFGBが自分たちのミーティングとしてオープン・ミーティングを引き継ぐことにしました。この後、FGBの考えが日本中に広まって行くようになり、私はアメリカと目本のメンバーからなるチームと一緒にアウトリーチの旅に出かけました。最初の旅では、長崎、福岡、広島及び岡山で毎晩のように相次いでオープン・ミーティングを開ました。これは、これらの都市ぱかりではなく、特に、出かけて行った日本のメンバーたちに強い影響を与えました。彼らのうちの多くの者が今ではFGBの指導者になっています。

●ロシア宣教への働き
 l991年、主はFGBの責任から私が離れることを望んでおられることに気づきました。私はFGBジャパン事務局を担当し、全国大会を開催しようとしていました。こうして、私の手がけてきた働きを日本の方々がする時が来たのです。私が退いた時、私には他に何もすることがなく、子どもが家を離れて行くときに親が感じると同じように、私は少し虚しさを覚えました。神さまは別の計画を立てていてくださり、l992年の初めに神さまは私の心の中にビジョンを与えてくださいました。これは映画のワンシーンようなものではありませんでしたが、私はロシアに行くべきだという強い印象を受けました。私は、クリスチヤンになって以来、いつもロシアのために析ってきました。l975年には、実現こそしませんでしたが、ロシアヘ行こうとさえしたことがあるのです。今回は、聖書やキリスト教の本、テープなどを満載したバンを幾人かの日本人たちと一緒にロシアヘもっていくよう示されました。私は福音を語り、印刷物を配布し、そしてバンを牧師にさしあげ、それから飛行機で日本に戻ってくる予定にしていました。問題は、当時私は中古車を東ロシアヘもって行ったという例を一度も聞いたことがなかったことです。私にはロシアとの接触が余りなく、その上、その様な冒険のための資金も全くなかったのです。l992年7月のFGBミーティングで、私はレイヨ・プロッメンダール宣教師から、どのようにして中古車や聖書、衣類その他の援助物資を日本から東ロシアへ運んだかについて聞きました。私の心はわくわくしました。それで、私はこの兄弟の次の族行の際に彼に同行すべきであることを悟ったのです。


 こうして9月に、私はサハリンに向かうロシアの貨物船に乗り込みました。私たちは様々な配給物資を満載した7台の車と国籍の異なる6人のメンバー、それに私たちの旅の模様を記録したいと申し出たCNNのカメラ班とで行きました。わくわくする旅の末に、私たちはサハリンに到着しました。船を降りてから、私は、配布すべき聖書や本、テープなどが載せてあるバンを運転して、私たちの最初の伝道集会に車で向かいました。私たちは福音を語り、聖書を配布し、バンを牧師にさしあげ、そうして私は飛行機で日本に戻りました。私たちのチームの内の3人はFGBのメンバーでした。私に与えられたビジョンを主は何と素晴らしい方法で成就してくださったことでしょう!その後の旅でも、私はしばしぱこうした超自然的な導きを体験しました。聖霊さまはやがて起ころうとしていることを示し、そしてそれを成し遂げてくださいました。しかし、実は、これはほんの始まりにしか過ぎなかったのです。この旅の間、私たちは何百人もの人たちがイエスさまを受け入れるのを目の当たりにしました。
 しかし、彼らを面倒を見る教会や牧師が数えるほどしかいなかったのです。主は再ぴ私の心に別の重荷を置かれました。それは、ロシアで神の言葉を教えるための聖書訓練学校を開くというものでした。ロシアの極東地域を続けて訪れているときに、私は同じ重荷を持っている数人の牧師らに出会いました。こうしてl994年に、私たちは“フェイス・イン・アクション・バイプル・スクール”をウラジオストッタに創設しました。その時以来、私たちは60人以上の働き人を訓練しました。彼らは現在、多くの様々なクリスチャンの働きに就いています。私は毎年4回ほどその学校で教えるためにウラジオストックヘ旅行します。l992年の最初の旅以来、私は30回以上も行ったことになります。


 しかし、これは私個人だけのミニストリーではありません。それは宣教の働きの一部を日本のクリスチャンたちに分け与える素晴らしい方法だからです。数人のFGBのメンバーが伝道や聖書学校を見学するために私と一緒にロシアヘ行ったことがあります。ロシアは本当に日本に最も近い外国です。日本の教会が最も近い隣人に救いの手を差し伸べることはとても大切なことです。

●主の喜ぴとともに25周年
 この11月、私たちは日本での25周年日を迎えます。私に最高の満足感を与えてくれるものは私がやり遂げたことそのものではなく、私が他の人たちのために切り開いた仕事を彼らがやってくれているのを見ることなのです。彼らが日本の教会にいるクリスチャンであれ、FGBMFIジャパンの指導者たちであれ、あるいは極束ロシアの聖書学校の学生たちであっても構わないのです。私の心からの願いはそれらのミニストリーが増え広がって行き、そして主イエスが益々より多くの栄光をお受けになるのを見ることでした。それは、全て主の真実さのゆえに起こったことなのです。


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